瞑想ときいて、あまり良い印象を持たない人も多いでしょう。オウム真理教事件の記憶がマインドコントロールを連想させるためかもしれません。ウィキペディアによると瞑想とは多様で、静かに座っておこなうものや、ヨガのように体位をとるもの、集団で母音を低い声で続けて発する倍音声明のように声を用いるものもあります。その効果は深いリラクセーション、高度の覚醒、知覚の明晰さの高まりなど様々な効果が認められ、GoogleやFacebookで導入されたことでも知られています。

現代人にリラクセーションが必要であるとすると、なぜ日常生活でそれ程に緊張を余儀なくさせられているのでしょうか。瞑想を経験すると、何も考えない状態でいることがどれほど大変なことかが理解できます。
私たちの脳は、好む好まざるにかかわらず、様々な想像、とくに未来の想像を絶え間なくしています。何か悪いことが起こりそうだと予期して不安になり、自分の行動をこれからどう展開するか想像して計画を立てます。人類が食物連鎖の頂点にいるのは、他の動物よりも腕力が強いわけでも、身体能力が優れているわけでもありません。猿から現生人類への発達は前頭葉の発達で、私たちがこの地球の頂点に存在できる理由であり、それは苦もなく未来を想像できるからです。無駄におでこが出っ張っているわけではないのです。
前頭葉に損傷を受けると、不安が消えて心が平静になりますが、未来を考えることができなくなります。私たちには想像することができませんが、今しかない状態になります。未来を考えることは、恐れ、心配、不安を予測することができ、将来の不利益を最小限に抑えることができるのです。

未来を考える


幸せな未来を想像すると幸せな気分になれます。ただ、良い出来事を簡単に想像できると、その出来事が実際に起こる確率を過大に見積もることになります。
例えば、宝くじを買うときの「あの感覚」や賭け事に手を出した時の「あの感覚」です。一方で、煩わしいこと、馬鹿げたこと、不快なこと、恐ろしいことを考えずにはいられない状態が長く続くと、精神科で治療を受けなくてはなりません。

常識に基づく未来や計画


私たちが、未来を予測するときには、それぞれ個人の常識に基づいておこないます。
問題は、「個人の常識」は、共通の常識ではなく、その場その場で、立場により異なることなのです。つまり、ある人にとっての常識が、他の人には馬鹿げており非常識となることです。例えば、民主党を中心とするリベラル派が、コロナ禍の中で人権に制限を設ける特措法などは反対すべきであるのに、ロックダウンを求めています。保守派を自認する人であれば、現状維持のはず、つまり死刑は賛成、憲法改正は反対であるべきなのに、死刑は反対、憲法改正は賛成といった矛盾が起きてしまいます。それぞれが考える常識には一貫性がありません。我々の特定の信念が、全て何らかの根本的な思想から生じていると信じていますが、現実にはかなり自由に、でたらめに、そこに至っており、常識はつじつまの合わない矛盾した信念の寄せ集めで、今は正しく思えても別の時には正しいと限らないものであるということです。
常識に基づいて、世界を理解したり、自らの事業と事業を取り巻く社会を理解することは、役に立たない可能性があり、どうすれば自分は正しいという理解ができるのか。

常識は一貫性に欠けるし、矛盾することもありますが、日常生活ではまず問題にはなりません。なぜなら日常生活はいくつもの小さな問題に分かれており、それぞれ個別に対処できる具体的な場面だからです。取引の場面では「正直」であることが常識で、「正直」でない取引をすれば、後でしっぺ返しを受けることを覚悟しなければなりません。スポーツの場面では「正直」ではなく、「勝利のために欺く」ことが常識です。
しかし、時間的にも空間的にもかけ離れた、日常生活に根ざしていない問題に対処するとき、多数の人々の行動を予測管理するといった問題を常識に基づいて計画することは危険です。私たちが新聞記事や友人との間で自らの常識で議論し、その結果どんな結論になろうとも問題にはなりません。むしろどうでもよいと思って議論しているかもしれません。議論することが目的なっているかもしれません。もし、政策立案者が自分の常識に基づき政策を立案しているとしたら問題です。子ども手当を例にあげれば、子供を作らない自由があり子供を産むのは自己責任であると考えるか、少子化の対策の為に支援が必要であると考えるか、子供の人権擁護のための養育費の社会的負担と考えるかで、政策は全く異なったものになります。政策立案者の家庭環境や社会経験により施策が立案され実施される。前例踏襲とともにそれが社会に定着したとしたなら、それは正しいことだったのでしょうか。計画が失敗、間違った方向に進むのは計画者が常識を無視したときではなく、自らの常識に囚われて自分と異なる人々の常識を無視したときなのです。

過去や歴史は常識により意味づけされたもの


過去は複雑な選択肢の結果で、我々には起こったことしか知ることができません。起こったかもしれないが、偶然にも起こらなかったことに思いをはせることができません。
私たちが知る歴史は、常識に基づく物語です。いくつかの事件をを組み合わせて、因果関係があるかのように構成されて作られます。当然起こるべくして起きた結果で、その結果が必然であると物語は語りかけますが、そうではなく、歴史は、物語を作る歴史家、ジャーナリスト、専門家などの人々が、各々の常識にしか過ぎないのです。物語が完成して、権威ある人の賛同を得て、若しくは大衆に受けそうな物語に構成し発表されたものです。拡散され、人々に認知され歴史になります。同時に多くの事件が起きたにもかかわらず都合の良い事件を強調し、都合の悪い事件は無視して作り上げられた物語しかすぎません。

未来は感動的な物語ではない


歴史物語を作るように、未来を出来事の連なる一本の道であり、それがまだ起きていないだけであるかのように構成します。自らの常識に沿ってつじつまが合うように何度も頭の中でシミュレーションすることで未来を想像します。現実には、そのような道など存在しません。むしろ未来は選択肢の束のようなもので、選択肢1本1本に確率があり、偶然の結果として未来が事実となります。

複雑な社会システムでは、ある出来事が起こる計画を立てることはできません。科学実験であれば、ストリーを作り何度も実験をおこない、実験の結果によりストリーを再構成し、常識を修正することでまだ解明されていない真理を見つけることができます。しかし、現実社会では実験ができません。実験をする前に戻ることができないからです。
もし、社会実験ができるならば、事業計画を作成し何度も繰り返し実験し、最も効率的で、最もコストが低い計画を立案し、実行に移すことで、成功の確率は飛躍的に高まります。
私たちは目の前にある顧客の行動を予測することできます。仮想の顧客の行動は予想できても、まだ知らない顧客群の行動を予想することができません。

ならばどうする

自分の心臓を止めることができないのと同じで、常識に基づく直感を抑えることはできません。では、どうすれば良いのか。『偶然の科学』(ダンカン・ワッツ)には答えが載っていません。「常識」は疑うべきだというテーゼだけです。
揺るがない何かを手立てにするしかありません。しっかりとしたポリシーを常に中心に備えることで、自分よがりの常識による間違えを減らすことができるかもしれません。

参考文献


Heath, C., Heath, D., & 千葉敏生. (2013). スイッチ! : 「変われない」を変える方法 (新版). 早川書房.
Gilbert, D. T., & 熊谷淳子. (2013). 明日の幸せを科学する (Issue NF399). 早川書房. 
Watts, D. J., & 青木創. (2014). 偶然の科学 (Issues 7316 . ハヤカワ文庫NF; NF400 . 〈数理を愉しむ〉シリーズ||スウリ オ タノシム シリーズ). 早川書房. 
Jacobs, J., & 香西泰. (2016). 市場の倫理統治の倫理 (Issue [シ-31-2]). 筑摩書房.